大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和23年(オ)101号 判決

上告人

右代表者

法務総裁

被上告人

大湾朝幸

主文

原判決を破毀する。

本件を東京地方裁判所に差戻す。

理由

上告理由は末尾添附別紙記載のとおりであり、上告理由に対する判断は次のとおりである。

上告理由第三点について。

被上告人が昭和一七年四月一四日内務大臣に対し、國籍回復許可の申請をした原因事実に関し、原判決が確定した事実は「被上告人が昭和一七年四月頃しばしば目黑警察署に呼び出され、情報係をしていた警視廳巡査油科誠一から、敵國人はスパイの嫌疑をかけられ、旅行するにもその都度許可がなければならないし、又食糧事情が窮迫してくれば敵國人は配給が停止されるかも知れないから、速かに日本國籍を回復するようにと迫られたこと、これが爲め被上告人は畏怖の念を生じ國籍回復許可の申請を爲したものであるとする」ところである。しこうして原審は右油科巡査の言動は強迫行爲であり、被上告人が内務大臣より許可を得た國籍回復の許可申請は右強迫による瑕疵ある意思表示によるものであつて、本訴訟において之が申請を取消す意思表示をしたものであるから、國籍回復の許可もその効力を生じなかつたことになると判断しているのである。

よつて案ずるに、仮に強迫により行政行爲の取消を認容し得るものとしても、強迫は不法に害惡の告知が爲されなくてはならんのであるが、右油科巡査の強迫行爲のあつたとする昭和一七年四月当時の我が実情は敵國に対する感情逐次惡化の情勢下であつて、敵國人がスパイの嫌疑を受けること等は当然予想し得たところであり、又食糧事情も漸次窮迫度を加え一般にその配給が制限された実情下にあつたことは顯著な事実である。しからば油科巡査が右原審の認定した程度の事由と且つそれ故日本の國籍回復方を被上告人に告げたからといつて、之を不法の害惡の告知とは即断することはできないのであつて、あるいは当時敵國の國籍を有する者、即ち敵國人たる被上告人に対しその安全の爲め好意に依る勧告を爲したものとも認めることができるのであつて、從つて原審の上示認定した事実だけでは、未だ之を以て強迫と断ずることを得ないものである。然らば原判決が右認定した程度の事実をもつて強迫行爲と判断したのは、此点に関する審理不盡若くは強迫に関する法令の解釈適用を誤つた違法があるものというの外はない。よつて此点に関する論旨は理由あるをもつて、自余の論旨に対する判断を省略し、民事訴訟法第四〇七條第一項に則り、主文のとおり判決する。

この判決は裁判官全員の一致した意見である。

上告代理人民事訟務局長長野潔民事訟務局第二課長鈴木信次郞民事訟務局第一課長補佐岡本元夫の上告理由

第一点 原判決には、法令の解釈を誤つて被告敗訴の言渡をした違法がある。

原判決は、憲法第二十二條第二項の規定の趣旨から、直ちに強迫による國籍回復許可の申請を取り消すことができると判示しているが、かような論理の飛躍は許されない。憲法第二十二條第二項は、「何人も、外國に移住し、又は國籍を離脱する自由を侵されない」と規定しているが、これは決して無條件に國籍の離脱を許す趣旨ではない(美濃部日本國籍法原論第一九八頁参照)すべて人類は、いずれかの一の國に属するのが理想であつて、無國籍又は二重國籍を防止することは、世界各國共通の事柄であり、日本國憲法がこの例外を認めるわけがない。たとえば、日本人が國籍を離脱した結果無國籍人となる場合に、憲法第二十二條第二項の規定を援用して、一方的に國籍の離脱を許さなければならないものではあるまい。國籍離脱の自由も、憲法第十三條にいわゆる「公共の福祉に反する限り」これを制限できることは当然である。公共の福祉の観点から、國籍離脱の自由を條件づけたものは國籍法である。もちろん國籍法は、憲法施行以前から存在する法律ではあるが、憲法施行後も有効な法律であり、ただ一、二の條文が当然失効したと認められているに過ぎない。この國籍法は、日本人が外國に帰化し(同法第二〇條)、あるいは、外國人の妻となり又は外國人から認知せられることにより外國の國籍を取得し(同法第一八條、第二三條)、あるいは、二重國籍を有する者がその一方である日本の國籍を離脱する(同法第二〇條ノ二、第二〇條の三―いわゆる狹義の國籍離脱)等一定の條件を備える者が正式の手続を経ることによつて日本人たる身分を離脱することを拒否してはいない。すなわち、日本人は國籍法の定めるところに從い、自由に日本人たる身分を離脱することができるのであつて、憲法第二十二條第二項の精神は國籍法が認めているところであり(同法第二十四條第一項の制限は、既にその存在理由を失つているから問題にならない)、原判決のいうように、あえて「この規定を具体化する立法的措置」をまつまでもない。しかも、このことは、強迫による國籍回復許可の申請を取り消すことができるかどうかということとは全く別問題であつて、憲法第二十二條第二項の規定から、直ちに強迫による國籍回復許可の申請を取り消すことができるという結論を下すことは、憲法の解釈を誤つているだけでなく、甚だしき論理の矛盾である。けだし、強迫を原因として許可申請という行政法上の行爲を取り消すことができるかどうかは、國籍回復許可の申請に特有のことではなく、國に対する行政法上の意思表示に共通する法律問題だからである。しかるに原判決が縁もゆかりもない憲法の規定を援用して、國籍回復の許可申請を取り消すことができると判断したことは、法令の解釈を誤つて判決した違法があるといわなければならない。

第二点 原判決には、行政行爲の公定力を無視し、法令の解釈適用を誤つた違法がある。

國籍回復許可の申請は、國籍を回復しようとする者から國に対してなされる公法上の意思表示であり、これに対して國は許可という行政行爲をする。この場合申請者と國の関係は公法関係であつて、私法関係ではない、公法関係にあつては私法関係が対等者の関係であると異り、原則として不対等者間の関係である。その結果、一般に公法関係には民法その他私法規定が適用せられないのを原則とするのであるが、たゞ公法にあつては、民法のような通則的規定がないために、公法関係においても私法関係と同樣の性質を有する事柄については、條理上民法の原則を適用すべき場合があることは、全面的にはこれを否定しない(例えば、代理に関する規定の如し)。しかしながら本件のような申請が國によつて受理せられ、國がこれに対應する國籍回復許可という行政行爲をした後においては、その行政行爲の公定力に基き、もはやその申請を取り消すことを得ず、國籍回復許可という行政行爲は、何等瑕疵のない申請に対してなされたと同一の効力を有するものと解すべきである(美濃部行政法撮要上卷一二九頁、同行政法序論四九頁参照。いずれも、無能力者の國に対する意思表示に関するものであるが、瑕疵ある意思表示についても同樣であると解する)。これは、行政行爲の公定力を認める限り当然の結論であつて、一般私法上の契約等と解釈を異にするゆえんである。しかるに、原判決は、この行政行爲の公定力を無視し、新憲法第二十二條第二項が國民に國籍離脱の自由を認めていることを唯一の根拠として、直ちに強迫による國籍回復許可の申請を取り消すことができるものと判断したのであつて、原判決には、法令の解釈適用を誤つた違法があるものと思料する。

第三点 原判決には、強迫の点について、判断遺脱又は法令の解釈適用を誤つた違法がある。

原判決は、証人油科誠一の証言、原告本人尋問の結果を綜合して、「原告は昭和十七年四月頃しばしば目黑警察署に呼び出され、情報係をしていた警視廳巡査油科誠一から敵國人はスパイの嫌疑がかけられ、旅行するにもその都度許可がなければできないし、又食糧事情が窮迫してくれば、敵國人には配給が停止されるかも知れないから速かに日本の國籍を回復するようにと迫られたこと、これが爲め同原告は畏怖の念を生じ、前記の如く國籍回復許可の申請をした」事実を認定し、これをもつて「右申請は強迫によつて爲されたもの」と判断している。しかし、強迫とは、強迫者が強迫の意思をもつて違法に害惡を加うべき旨を告げて畏怖を生ぜしめる行爲をいうのであつて、從つて先ず、強迫者に強迫の意思の存することを要するが、原判決は、強迫者油科誠一に強迫の意思があつたかどうかという点については何等判断を示していない。また強迫というためには、違法に害惡の通告があつたことを要し、違法であるかどうかはその行爲の当時を標準として判断すべき問題であるが、本件行爲の行われた昭和十七年四月当時は、あたかも戰時中敵國に対する感情が逐次惡化している際であり、このような情勢下において敵國人がスパイの嫌疑を受ける等のことは当然予想し得るところであり、また食糧事情も漸く窮迫の度を加え、一般にその配給が制限されたことも顯著な事実である。從つて、油科誠一がかような事由を告げたからといつて、当時を標準として判断すれば、むしろ被上告人の安全のため好意的に國籍回復を勧告したに過ぎず、このことを以て違法に害惡を通告したものということはできないから、油科誠一のこの行爲は強迫に該当しないこと明らかである。しかるに原判決は油科に強迫の意思があつたかどうか、害惡の告知は違法であるかどうかについて判断することなく、同人の行爲を強迫と速断し、これによつてなされた國籍回復許可の申請を取り消すことができるものとしたのは、確定した事実に、民法第九十六條の規定を誤つて適用したものというの外はない。よつて原判決には、判断遺脱又は法令の解釈適用を誤つた違法がある。

以上の理由により原判決は違法であり、到底破棄を免れないものと思料する。 以上

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